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ポルトガルのロカ岬に、こんな石碑があるとテレビでやっていた。
「ここに地果て、海始まる」
詩人カモンイスの詩だという。
「ヨーロッパ最果ての地」。そんなカッコいい言い方をされちゃ、どうしたって憧れる。
ぼくは社会の時間に使っている世界地図をランドセルから取り出して眺めた。ロカ岬は左はしにちょこんと赤丸で書かれていた。
その世界地図は赤や青や黒でいろんな線が引かれていて、黄緑色に塗られた陸地と水色で塗られた海としかわからないぼくにとっては、テレビで見た茶色の崖や青い海、そしてその石碑を想像するのは難しかった。
――どこかに行きたいな。
昼下がりの日曜日は退屈な空気に家中がどんよりと沈んでいて、とにかく遊びに行かなきゃと、ぼくはお気に入りの自転車に乗って秘密基地の崖に行こうと決めた。
いちばん上が見えないくらい長い階段を上る、お年寄り泣かせな神社がある。その階段の途中で手すりを越えて、生い茂った雑草に囲まれた、細くて大人は道と呼ばないようなけもの道を進んでいくと、小さな小川が流れているところに出る。小川の向こう側には竹やぶが広がって、その奥を隠している。
流れる水についていくように下流へ向かって歩くと、途中で小川の流れは大きく右にカーブを描いて、背の高い崖が目の前にそびえ立つんだ。
足もとは草ぼうぼうなのに、その崖の斜面だけは真っ黒な岩肌で、苔むしている。崖の真下がちょっと広く平らになっているから、そこでタオルを敷いて本を読んだり、お菓子を食べたり、ぼくの秘密基地にはもってこいだった。
今日は特に何をするつもりもなく来ちゃったから、ナップザックの中身はタオルと、食べかけのチョコレートだけ。
――何をしよう?
よし、じゃあ今日は秘密基地をパトロールだ。
いつもは崖の真下まで来ればおしまいだったけど、今日は崖に沿って歩いてみる。小川から離れると帰り道を見つけるのに苦労しそうだからちょっと怖いけど、ぼくは右に曲がった小川に背を向けて、岩肌を右手でぺたぺた触りながら冒険者のように勇敢な足取りで歩き出した。
あ、と思ったときには、ぼくは足もとの長い草に足を取られて転んじゃった。おどろいたことには、転んだ先には草ぼうぼうの地面がなくて、ぼくは叫び声をあげながらツルツルした斜面を滑り落ちていった。
***
「準備はいいかな」
「はい、隊長どの!」
「よし、行けーっ」
「おもかじいっぱーい!」
奇妙な声とともにまぶたの裏でチカッと強い光を感じて、ぼくはゆっくりと目を開けた。
昼過ぎに秘密基地にいたのに、もう辺りは真っ暗だった。ぼくは長いこと気をうしなっていたのかな、と心配になった。きっと帰りが遅いから、お母さんに怒られる。
「二番隊、続けーっ」
「はい、隊長どの!」
またガヤガヤと声が聞こえて、真っ暗闇の奥が、ごう、という音とともに眩しくなった。
「わあっ」
ぼくが思わず声をあげて目を覆うと、一瞬の沈黙の後、ひそひそとしたざわめきが、さざ波のようにこちらに押し寄せてきた。
「だれだ、そこに、いるのは?」
「隊長どの、人の子です。人の子がそちらに座りこんでいます」
「なんだって。人の子じゃあ、困るじゃないか」
ぼくはなにかしらその言い方に怖いものを覚えて思わず辺りを見回したけれど、真っ暗な上にさっきの光の残像がじゃまして何も見えなかった。
「ごめんなさい」
とりあえず虚空に向かって謝った。きっと、入っちゃいけないところに落ちたんだ。
「謝っているぞ。何か悪いことをしたのか」
「隊長どの、人の子はこちらを見ていません。目的は何かを問いただして、処分を与えないといけません」
ぼくはすっかり怖くなって、もう一度必死に謝った。
「ごめんなさい。あの、ぼく落っこちちゃったんです。今は真っ暗で何も見えません。さっき何か光ったから、目を焼かれちゃったかもしれません」
「なんだ目が見えないのか」
隊長どのと呼ばれている低い声が言った。
「そうなんです。あの、みなさんが何か悪いことをしていても、ぼくには見えていないので、ここは見逃して、ぼくを家に帰らせてもらえますか」
「悪いことだって!」
別の声が叫んだ。
「悪いことなど、失礼なやつだ。おい人の子。お前こそ、いきなり我々の仕事をじゃまするなんて、どちらが悪いんだ」
「ぼくです! ごめんなさい。じゃまする気はなかったんです。でも落っこちちゃって」
「そうか」
隊長どのの声が静かに言った。
「人の子。我々は今、世界中に仲間を派遣している最中なのだ。今日はかんむり座の流星群の日だから、グズグズしてはおれんのだ」
「ごめんなさい。ぼく……じゃまする気はなかったんです」
「よし、三番隊、急げーっ」
「はい、隊長どの!」
「おもかじいっぱーい!」
「うわぁ」
また闇の奥が一気に明るくなって、ぼくはまた声を上げてしまった。
「やい、人の子! うるさいぞ!」
キーキー声が怒鳴った。
「ごめんなさい、ごめんなさい。眩しくて、びっくりしました。ぼくは目を閉じていますね。みなさんを見ることもないし、目も焼かれないで済むから」
反射的に目をつぶって謝って、それでも気になってつい聞いてしまった。
「あの、何をしているんですか?」
「何を、だって! 我々の重大な仕事だよ、世界中に仲間を派遣して、人々の願いを聞いてやらなきゃならないのだ」
隊長どのが早口に答えた。
「人間はあまりに多いが、願い事はこちらで叶えるべきものだけ選別して、叶えてやるようかんむり座にお願いに行くまでが我々の仕事だ。さ、これで我々の忙しい理由がわかったね。よし、四番隊、出港!」
「はい、隊長どの!」
目をつぶっていても、また光ったのがわかった。それにしても今の説明、まるで……。
「あの……、流れ星……?」
ぼくの問いかけに、ざわめきが大きくなった。
「隊長どの! この人の子は、人の子は……!」
「うるさいぞ、ちょっと待て。よし五番隊、行けーっ」
「はい、隊長どの!」
またチカッとまぶたの裏が赤くなった後、隊長どのが言った。
「今日は七十九の隊列を派遣しなければならないのだ。人の子、君は我々の別の呼び名を知っているようだが、今日はこの港から七十九の隊列を派遣しなければならないのだ。だから終わるまで黙っていておくれ」
「港だって? 海なんかどこにもないのに」
「人の子! 黙っていないと、その舌を焼き切るぞ!」
キーキー声が怒り狂ったので、ぼくは黙るしかなかった。
六番隊、七番隊……隊長どのの号令の後、一斉に叫んで、チカッと強く光る。これが何十回か繰り返される中、ぼくはずっと目をつぶっているものだから、ともすれば寝てしまいそうだったけど、なんとか耐えた。
「五十六番隊、出港ーっ」
「はい、隊長どの!」
「おもかじいっぱーい!」
隊長どのの声が少し疲れた様子で、別の号令をかけた。
「全隊、休め!」
「はい、隊長どの!」
ぼくはうっすら目を開けてみたけど、やっぱり辺りは真っ暗だった。
「おい人の子、まだそこにいるか?」
隊長どのがすっかりしわがれてしまった声で言った。
「はい、どこにも行けないので。帰り道もわからないのです」
ぼくは正直に答えた。「あの……、隊長どの、声、大丈夫ですか?」
「うむ。今日は七十九隊なのだ。まだ半分と少しであるからして、疲れてはおれんのだ」
毅然とした態度だったけど、声はかすれて、ゼイゼイという息が混じっていた。
「でも、お疲れでしょう」
「人の子、私の仕事は号令をかけて隊の士気を高めることだ。今日はとくべつ忙しいが、疲れてはおれんのだ」
「ぼくにもできますか?」
うっかり言ったこの言葉に、僕自身もおどろいたけれど、隊長どのはもっとおどろいたみたいに、声がひっくり返った。
「人の子が、我々に号令をかけるだと?」
「あの、ごめんなさい。ぼくそんなつもりじゃなくて、ただ隊長どのがお疲れだから、手伝えないかと思ったのです」
「そうか……」
「隊長どの、人の子が号令をかけると、隊員の士気に関わります」
キーキー声が言った。
「どうだろうか。私が言った後で、人の子がもう一度大きな声で言うのは? 皆にも、私の号令であるとわかるだろう。私は少し声が出なくなってきた」
隊長どのは弱々しい声で言った。
「私も隊長どのの声は心配です。号令から全て、私が代わりましょう。隊長どのは休んでください」
キーキー声は誇らしげに言った。
「それはいけません」
別の声が言った。
「隊長どの、そうしたら次の隊長は彼になるのかと皆が思います。妙な誤解を生むべきではありません」
「ふむ……」
「私はそんな野心など持っていないぞ!」
キーキー声が慌てた様子で叫んだ。
「じゃあ、ぼくが手伝うのがいちばん公平ですよね。ぼくは人間だから、隊長にはなれないのだから」
ぼくは闇に向かって言った。
「うむ……不本意だが、今後の隊を思うと、それがよかろう」
それから、隊長どのが小さな声で号令をかけて、ぼくが同じように大声で言う、ということが繰り返された。号令をかけるたびにまぶしいものだから、ずっと目をつぶっていることにした。
七十四番隊。
隊長どのが言いかけたとき、キーキー声が割って入った。
「自分は、やはり、人の子の号令では出港できません!」
ぼくはドキッとして、叱られたような気になってうつむいた。まぶたの裏では、さっきの七十三番隊の残像が赤だったり緑だったりとちかちかしていた。
「せめて七十四番隊だけでも、隊長どのにお願いしてもよろしいでしょうか?」
キーキー声は続けた。「我々は隊長どのの下において任務にあたっていることを誇りに思っているのです」
キーキー声の要望はもっともだと思えたし、ぼくとしては黙っているしかなかった。隊長どのは静かに言った。
「そうか」
「はい」
「君は、私の一度下した決定には従えないと。そして、上官であるこの私に、号令をかけろ、というのだね」
「いえ、そんな……」
キーキー声がうろたえた。
「よろしいか。隊である以上、下された決定には従うものである。自分だけ特別扱いしろなどという要求は、すなわち、私の決定には従えないということだ。それとも何かね、君は、私よりも上であると、私に対して命令を行える立場であると言いたいのかね」
隊長どのの声は厳しかった。「有事では、上官に従わないことが命にかかわることもある」
「……出港します」
キーキー声は、恥じ入ったように言った。
「よし。それでは諸君、準備はよろしいかな」
小さい声で号令する隊長どのの声は先ほどと変わって優しく、ぼくはそれでも力強く大声を出した。キーキー声がせめても出港するときの意気地を、くじけさせないように。
「七十九番隊……!」
ぼくは最後だと思って声を張り上げた。
「はい、隊長どの!」
そして隊長どのの号令を待ったけど、今までより沈黙が長かった。
「隊長どの……?」
ぼくはすこし不安になって、目を開けた。
真っ暗闇の中に、薄ぼんやりとした光の塊が点々と光っているのが初めて見えた。
「人の子、今日はとくべつ忙しかった。私もすっかり歳をとったようだが、こんなに声を痛めるとは思わなかった」
隊長どのの声が聞こえてきた。でも、無数に光る中の、どれが隊長どのかはわからなかった。
「どうだろうか、七十九番隊。最後のお前たちは、この人の子の願いを聞いてやるのは? かんむり座も、よくよく説明したら、真っ先に叶えてくれるだろう」
「はい、隊長どの! 仰せのままに!」
無数の光が波のようにうねって、答えた。
「人の子、お前の望みは何だ。言ってみろ」
ぼくはドキドキしながら周りを見渡した。真っ暗で、光のざわざわ以外は何も見えなかった。
「ぼく……ぼく、家に帰りたい」
なんとなくさみしい気持ちがしながら、言った。
「それで……ぼく、お母さんに心配かけているかもしれなくて……怒られない方法、ないですか?」
また無数の光がうねった。ざわざわした響きは、笑い声に聞こえた。
「家に帰すくらいなら、かんむり座の許しをもらわなくても大丈夫だろう。承知した、人の子。しかし、母親が子供を叱るのは愛情であるからして、我々の知るところではないのだよ」
隊長どのは少し笑ったようだった。
「人の子、今日は礼を言う。これからは隊の規律をしっかりとして、次の隊長も決めようと思う」
「隊長どの……! そんな……!」
光の中からおどろいたみたいな声が聞こえた。
「ありがとう。しかし、退き際も美しくありたいのだ。何も決めないまま寿命が来て、混乱の中に皆の意にそぐわない者が私のあとを継ぐよりはよいだろう」
ぼくはなんだか申し訳ないような気持ちになった。ぼくが手伝ったことで、隊長どのはもう力がないと知られてしまったのだと思った。
「人の子。それは違う」
隊長どのはこちらの心を見透かしたように言った。
「いつかは決断の時が来るのだ。私は先延ばしにしていた。今日君の力を借りて決心がついたのだ。これについても、礼を言いたい」
隊長どのの声は穏やかだった。
「最後の号令は私が言う。人の子、しっかりと目をつぶっていなさい」
ぼくはハッとして、慌てて叫んだ。
「ぼく……ぼくの方こそ、ありがとうございます!」
それに、聞いておきたいことがあった。
「あの、あの、どうしてここが港なんですか?」
隊長どのはまた少し笑った。
「この空は我々の海なのだ。我々はどこでも寄港地にできる。今日はこの崖が我々を呼んでいた。それだけだよ」
「ぼく、今日テレビで見た、ロカ岬って素敵だと思ったんです。地が果てて海の始まる場所。ここは、ぼくの秘密基地だけど、海はないから……」
「人の子。見知らぬ土地というのはいつだって魅力的なものだよ。いつかその岬にも行ってみなさい。しかしね、それと同じくらい、自分だけのいつもの場所というのは、素晴らしいものなのだよ。そしてね、どんなに怒られようと」
隊長どのは少し言葉を切った。
「帰る場所があって、待っていてくれる人がいるのは、幸せなことだよ」
ぼくは目を強くつぶった。まぶたの裏が真っ赤になって、すごい光に包まれているのがわかった。
「七十九番隊、出港!」
「おもかじいっぱーい!」
最後の号令は、とても力強くて、かっこよかった。
***
目を開けると、見慣れた天井があった。
「起きた? 大丈夫?」
お母さんの声がした。
ぼくは、自分の部屋のベッドにいた。喉が痛くて声が出なかった。
「帰ってきたらあなた居間で寝ていたからね、起こそうとしたらすごい熱でね。起きてこられる?」
ぼくはびっくりして起き上がった。
「おかゆ、食べられそう?」
「うん……」
「あとね、自転車が神社のしたに置きっ放しだったって、隣のおばさんに言われたわよ。出かけていたの?」
「うん……」
お母さんがおかゆを取りに部屋を出て行ってしまうと、ぼくは改めて部屋を見回した。世界地図が床の上に放り出されていた。
窓の外はもう夜で、星が光っていた。崖のところで最後に見た景色と似ていた。
「夢……?」
かすれた声でつぶやいた。なんとなく、隊長どのの声を思い出す。
星がひとつ、スッと流れて消えて行った。
「ここに地果て、海始まる」
詩人カモンイスの詩だという。
「ヨーロッパ最果ての地」。そんなカッコいい言い方をされちゃ、どうしたって憧れる。
ぼくは社会の時間に使っている世界地図をランドセルから取り出して眺めた。ロカ岬は左はしにちょこんと赤丸で書かれていた。
その世界地図は赤や青や黒でいろんな線が引かれていて、黄緑色に塗られた陸地と水色で塗られた海としかわからないぼくにとっては、テレビで見た茶色の崖や青い海、そしてその石碑を想像するのは難しかった。
――どこかに行きたいな。
昼下がりの日曜日は退屈な空気に家中がどんよりと沈んでいて、とにかく遊びに行かなきゃと、ぼくはお気に入りの自転車に乗って秘密基地の崖に行こうと決めた。
いちばん上が見えないくらい長い階段を上る、お年寄り泣かせな神社がある。その階段の途中で手すりを越えて、生い茂った雑草に囲まれた、細くて大人は道と呼ばないようなけもの道を進んでいくと、小さな小川が流れているところに出る。小川の向こう側には竹やぶが広がって、その奥を隠している。
流れる水についていくように下流へ向かって歩くと、途中で小川の流れは大きく右にカーブを描いて、背の高い崖が目の前にそびえ立つんだ。
足もとは草ぼうぼうなのに、その崖の斜面だけは真っ黒な岩肌で、苔むしている。崖の真下がちょっと広く平らになっているから、そこでタオルを敷いて本を読んだり、お菓子を食べたり、ぼくの秘密基地にはもってこいだった。
今日は特に何をするつもりもなく来ちゃったから、ナップザックの中身はタオルと、食べかけのチョコレートだけ。
――何をしよう?
よし、じゃあ今日は秘密基地をパトロールだ。
いつもは崖の真下まで来ればおしまいだったけど、今日は崖に沿って歩いてみる。小川から離れると帰り道を見つけるのに苦労しそうだからちょっと怖いけど、ぼくは右に曲がった小川に背を向けて、岩肌を右手でぺたぺた触りながら冒険者のように勇敢な足取りで歩き出した。
あ、と思ったときには、ぼくは足もとの長い草に足を取られて転んじゃった。おどろいたことには、転んだ先には草ぼうぼうの地面がなくて、ぼくは叫び声をあげながらツルツルした斜面を滑り落ちていった。
***
「準備はいいかな」
「はい、隊長どの!」
「よし、行けーっ」
「おもかじいっぱーい!」
奇妙な声とともにまぶたの裏でチカッと強い光を感じて、ぼくはゆっくりと目を開けた。
昼過ぎに秘密基地にいたのに、もう辺りは真っ暗だった。ぼくは長いこと気をうしなっていたのかな、と心配になった。きっと帰りが遅いから、お母さんに怒られる。
「二番隊、続けーっ」
「はい、隊長どの!」
またガヤガヤと声が聞こえて、真っ暗闇の奥が、ごう、という音とともに眩しくなった。
「わあっ」
ぼくが思わず声をあげて目を覆うと、一瞬の沈黙の後、ひそひそとしたざわめきが、さざ波のようにこちらに押し寄せてきた。
「だれだ、そこに、いるのは?」
「隊長どの、人の子です。人の子がそちらに座りこんでいます」
「なんだって。人の子じゃあ、困るじゃないか」
ぼくはなにかしらその言い方に怖いものを覚えて思わず辺りを見回したけれど、真っ暗な上にさっきの光の残像がじゃまして何も見えなかった。
「ごめんなさい」
とりあえず虚空に向かって謝った。きっと、入っちゃいけないところに落ちたんだ。
「謝っているぞ。何か悪いことをしたのか」
「隊長どの、人の子はこちらを見ていません。目的は何かを問いただして、処分を与えないといけません」
ぼくはすっかり怖くなって、もう一度必死に謝った。
「ごめんなさい。あの、ぼく落っこちちゃったんです。今は真っ暗で何も見えません。さっき何か光ったから、目を焼かれちゃったかもしれません」
「なんだ目が見えないのか」
隊長どのと呼ばれている低い声が言った。
「そうなんです。あの、みなさんが何か悪いことをしていても、ぼくには見えていないので、ここは見逃して、ぼくを家に帰らせてもらえますか」
「悪いことだって!」
別の声が叫んだ。
「悪いことなど、失礼なやつだ。おい人の子。お前こそ、いきなり我々の仕事をじゃまするなんて、どちらが悪いんだ」
「ぼくです! ごめんなさい。じゃまする気はなかったんです。でも落っこちちゃって」
「そうか」
隊長どのの声が静かに言った。
「人の子。我々は今、世界中に仲間を派遣している最中なのだ。今日はかんむり座の流星群の日だから、グズグズしてはおれんのだ」
「ごめんなさい。ぼく……じゃまする気はなかったんです」
「よし、三番隊、急げーっ」
「はい、隊長どの!」
「おもかじいっぱーい!」
「うわぁ」
また闇の奥が一気に明るくなって、ぼくはまた声を上げてしまった。
「やい、人の子! うるさいぞ!」
キーキー声が怒鳴った。
「ごめんなさい、ごめんなさい。眩しくて、びっくりしました。ぼくは目を閉じていますね。みなさんを見ることもないし、目も焼かれないで済むから」
反射的に目をつぶって謝って、それでも気になってつい聞いてしまった。
「あの、何をしているんですか?」
「何を、だって! 我々の重大な仕事だよ、世界中に仲間を派遣して、人々の願いを聞いてやらなきゃならないのだ」
隊長どのが早口に答えた。
「人間はあまりに多いが、願い事はこちらで叶えるべきものだけ選別して、叶えてやるようかんむり座にお願いに行くまでが我々の仕事だ。さ、これで我々の忙しい理由がわかったね。よし、四番隊、出港!」
「はい、隊長どの!」
目をつぶっていても、また光ったのがわかった。それにしても今の説明、まるで……。
「あの……、流れ星……?」
ぼくの問いかけに、ざわめきが大きくなった。
「隊長どの! この人の子は、人の子は……!」
「うるさいぞ、ちょっと待て。よし五番隊、行けーっ」
「はい、隊長どの!」
またチカッとまぶたの裏が赤くなった後、隊長どのが言った。
「今日は七十九の隊列を派遣しなければならないのだ。人の子、君は我々の別の呼び名を知っているようだが、今日はこの港から七十九の隊列を派遣しなければならないのだ。だから終わるまで黙っていておくれ」
「港だって? 海なんかどこにもないのに」
「人の子! 黙っていないと、その舌を焼き切るぞ!」
キーキー声が怒り狂ったので、ぼくは黙るしかなかった。
六番隊、七番隊……隊長どのの号令の後、一斉に叫んで、チカッと強く光る。これが何十回か繰り返される中、ぼくはずっと目をつぶっているものだから、ともすれば寝てしまいそうだったけど、なんとか耐えた。
「五十六番隊、出港ーっ」
「はい、隊長どの!」
「おもかじいっぱーい!」
隊長どのの声が少し疲れた様子で、別の号令をかけた。
「全隊、休め!」
「はい、隊長どの!」
ぼくはうっすら目を開けてみたけど、やっぱり辺りは真っ暗だった。
「おい人の子、まだそこにいるか?」
隊長どのがすっかりしわがれてしまった声で言った。
「はい、どこにも行けないので。帰り道もわからないのです」
ぼくは正直に答えた。「あの……、隊長どの、声、大丈夫ですか?」
「うむ。今日は七十九隊なのだ。まだ半分と少しであるからして、疲れてはおれんのだ」
毅然とした態度だったけど、声はかすれて、ゼイゼイという息が混じっていた。
「でも、お疲れでしょう」
「人の子、私の仕事は号令をかけて隊の士気を高めることだ。今日はとくべつ忙しいが、疲れてはおれんのだ」
「ぼくにもできますか?」
うっかり言ったこの言葉に、僕自身もおどろいたけれど、隊長どのはもっとおどろいたみたいに、声がひっくり返った。
「人の子が、我々に号令をかけるだと?」
「あの、ごめんなさい。ぼくそんなつもりじゃなくて、ただ隊長どのがお疲れだから、手伝えないかと思ったのです」
「そうか……」
「隊長どの、人の子が号令をかけると、隊員の士気に関わります」
キーキー声が言った。
「どうだろうか。私が言った後で、人の子がもう一度大きな声で言うのは? 皆にも、私の号令であるとわかるだろう。私は少し声が出なくなってきた」
隊長どのは弱々しい声で言った。
「私も隊長どのの声は心配です。号令から全て、私が代わりましょう。隊長どのは休んでください」
キーキー声は誇らしげに言った。
「それはいけません」
別の声が言った。
「隊長どの、そうしたら次の隊長は彼になるのかと皆が思います。妙な誤解を生むべきではありません」
「ふむ……」
「私はそんな野心など持っていないぞ!」
キーキー声が慌てた様子で叫んだ。
「じゃあ、ぼくが手伝うのがいちばん公平ですよね。ぼくは人間だから、隊長にはなれないのだから」
ぼくは闇に向かって言った。
「うむ……不本意だが、今後の隊を思うと、それがよかろう」
それから、隊長どのが小さな声で号令をかけて、ぼくが同じように大声で言う、ということが繰り返された。号令をかけるたびにまぶしいものだから、ずっと目をつぶっていることにした。
七十四番隊。
隊長どのが言いかけたとき、キーキー声が割って入った。
「自分は、やはり、人の子の号令では出港できません!」
ぼくはドキッとして、叱られたような気になってうつむいた。まぶたの裏では、さっきの七十三番隊の残像が赤だったり緑だったりとちかちかしていた。
「せめて七十四番隊だけでも、隊長どのにお願いしてもよろしいでしょうか?」
キーキー声は続けた。「我々は隊長どのの下において任務にあたっていることを誇りに思っているのです」
キーキー声の要望はもっともだと思えたし、ぼくとしては黙っているしかなかった。隊長どのは静かに言った。
「そうか」
「はい」
「君は、私の一度下した決定には従えないと。そして、上官であるこの私に、号令をかけろ、というのだね」
「いえ、そんな……」
キーキー声がうろたえた。
「よろしいか。隊である以上、下された決定には従うものである。自分だけ特別扱いしろなどという要求は、すなわち、私の決定には従えないということだ。それとも何かね、君は、私よりも上であると、私に対して命令を行える立場であると言いたいのかね」
隊長どのの声は厳しかった。「有事では、上官に従わないことが命にかかわることもある」
「……出港します」
キーキー声は、恥じ入ったように言った。
「よし。それでは諸君、準備はよろしいかな」
小さい声で号令する隊長どのの声は先ほどと変わって優しく、ぼくはそれでも力強く大声を出した。キーキー声がせめても出港するときの意気地を、くじけさせないように。
「七十九番隊……!」
ぼくは最後だと思って声を張り上げた。
「はい、隊長どの!」
そして隊長どのの号令を待ったけど、今までより沈黙が長かった。
「隊長どの……?」
ぼくはすこし不安になって、目を開けた。
真っ暗闇の中に、薄ぼんやりとした光の塊が点々と光っているのが初めて見えた。
「人の子、今日はとくべつ忙しかった。私もすっかり歳をとったようだが、こんなに声を痛めるとは思わなかった」
隊長どのの声が聞こえてきた。でも、無数に光る中の、どれが隊長どのかはわからなかった。
「どうだろうか、七十九番隊。最後のお前たちは、この人の子の願いを聞いてやるのは? かんむり座も、よくよく説明したら、真っ先に叶えてくれるだろう」
「はい、隊長どの! 仰せのままに!」
無数の光が波のようにうねって、答えた。
「人の子、お前の望みは何だ。言ってみろ」
ぼくはドキドキしながら周りを見渡した。真っ暗で、光のざわざわ以外は何も見えなかった。
「ぼく……ぼく、家に帰りたい」
なんとなくさみしい気持ちがしながら、言った。
「それで……ぼく、お母さんに心配かけているかもしれなくて……怒られない方法、ないですか?」
また無数の光がうねった。ざわざわした響きは、笑い声に聞こえた。
「家に帰すくらいなら、かんむり座の許しをもらわなくても大丈夫だろう。承知した、人の子。しかし、母親が子供を叱るのは愛情であるからして、我々の知るところではないのだよ」
隊長どのは少し笑ったようだった。
「人の子、今日は礼を言う。これからは隊の規律をしっかりとして、次の隊長も決めようと思う」
「隊長どの……! そんな……!」
光の中からおどろいたみたいな声が聞こえた。
「ありがとう。しかし、退き際も美しくありたいのだ。何も決めないまま寿命が来て、混乱の中に皆の意にそぐわない者が私のあとを継ぐよりはよいだろう」
ぼくはなんだか申し訳ないような気持ちになった。ぼくが手伝ったことで、隊長どのはもう力がないと知られてしまったのだと思った。
「人の子。それは違う」
隊長どのはこちらの心を見透かしたように言った。
「いつかは決断の時が来るのだ。私は先延ばしにしていた。今日君の力を借りて決心がついたのだ。これについても、礼を言いたい」
隊長どのの声は穏やかだった。
「最後の号令は私が言う。人の子、しっかりと目をつぶっていなさい」
ぼくはハッとして、慌てて叫んだ。
「ぼく……ぼくの方こそ、ありがとうございます!」
それに、聞いておきたいことがあった。
「あの、あの、どうしてここが港なんですか?」
隊長どのはまた少し笑った。
「この空は我々の海なのだ。我々はどこでも寄港地にできる。今日はこの崖が我々を呼んでいた。それだけだよ」
「ぼく、今日テレビで見た、ロカ岬って素敵だと思ったんです。地が果てて海の始まる場所。ここは、ぼくの秘密基地だけど、海はないから……」
「人の子。見知らぬ土地というのはいつだって魅力的なものだよ。いつかその岬にも行ってみなさい。しかしね、それと同じくらい、自分だけのいつもの場所というのは、素晴らしいものなのだよ。そしてね、どんなに怒られようと」
隊長どのは少し言葉を切った。
「帰る場所があって、待っていてくれる人がいるのは、幸せなことだよ」
ぼくは目を強くつぶった。まぶたの裏が真っ赤になって、すごい光に包まれているのがわかった。
「七十九番隊、出港!」
「おもかじいっぱーい!」
最後の号令は、とても力強くて、かっこよかった。
***
目を開けると、見慣れた天井があった。
「起きた? 大丈夫?」
お母さんの声がした。
ぼくは、自分の部屋のベッドにいた。喉が痛くて声が出なかった。
「帰ってきたらあなた居間で寝ていたからね、起こそうとしたらすごい熱でね。起きてこられる?」
ぼくはびっくりして起き上がった。
「おかゆ、食べられそう?」
「うん……」
「あとね、自転車が神社のしたに置きっ放しだったって、隣のおばさんに言われたわよ。出かけていたの?」
「うん……」
お母さんがおかゆを取りに部屋を出て行ってしまうと、ぼくは改めて部屋を見回した。世界地図が床の上に放り出されていた。
窓の外はもう夜で、星が光っていた。崖のところで最後に見た景色と似ていた。
「夢……?」
かすれた声でつぶやいた。なんとなく、隊長どのの声を思い出す。
星がひとつ、スッと流れて消えて行った。
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